ケアの手探りの日々・その1 '92.11〜〉

-10月- 

 10月末、毎週欠かさず見ているNHKの日曜美術館で正倉院展の紹介を見た彼女が、突然「ねえ行きたい」と言い出す。会期は後1週間しかない。ホテルをいくつかあたってみたが、正倉院展が終わるまではどこも取れない。「また来年あるから来年行こう」と言うが、「来年、私生きているかどうかわからないから今年行きたい」と、ヒヤッとすることを言う。今までこんなに強硬だったことはない。「どんどん進みます」と言われたこともあり、「今のうちにどこへでも連れて行こう」という思いで、旅行社へ行ってやっと大阪のホテルを取る。

 

             -11月-       

 11月2週の金曜日、新幹線で京都へ。京都からJRの奈良線を宇治で乗り継いで、晩秋の大和路を窓から眺めながら奈良へ。会期末3日前の国立博物館は思ったほど混んでなく、騒がしい修学旅行生の一団が去った後はゆっくり見ることができた。私は修学旅行の引率で数回奈良へ来ていて、正倉院展も自由行動の日に1度見ている。彼女には留守番をさせて、私だけいい思いをしたなぁと思う。

 博物館を出たのは4時前。まだ時間があり、隣の興福寺へ行く。五重塔を見た後宝物館に行き閉館時刻まで居る。『大和古寺風物誌』や、土門拳の写真集などで何度も出会った覚えがある阿修羅像や旧山田寺仏頭に初めて対面する。夕暮れの奈良公園を歩き、こんな時間がいつまで続くのかという思いがする。

 大阪に行って泊まり、翌朝、又奈良に戻って、岩船寺口行きのバスに乗る。敗戦直後を思わせるようなものすごい混み方で、終点までほとんど体を動かせない。土曜なのに家族連れが多いので、この秋から始まった第2土曜日の学校休日とぶつかったのだと気付く。バスは混んでいたが、ハイキングの家族が多く、寺に着いてみると中の人はさほどではなく、ゆっくり見ることができる。

 岩船寺から浄瑠璃寺まで、石仏たちを見ながらゆっくり歩く。紅葉がきれいで、いちばんいい時期に来たんだとわかる。浄瑠璃寺の前の農家の柿が赤く実り、秋の大和路に来たという思いが強い。ここも私は2度目だが、彼女は初めて。新幹線で東京へ戻る。彼女はすこぶる満足した様子。写真をすぐ焼いてアルバムをつくる。記憶はなくても、自分が写っている写真を何度も見て、新しい記憶として残るらしい。

 春以来、私の胸のアタックが多くなり、その診断の後は更にアタックが増えて、1日数回もニトロ舌下錠をなめて痛みをおさえる。通院している循環器病院で、「入院して発作をおさえた方がいい」と言われるが、和子の状況を話して薬の種類を増やしてもらってしのぐことにする。2年前の入院検査の時、寒さとストレスがよくないと言われたが、ストレスがこんなに響くものなのかと思い知らされる。「覚悟をして下さい…」と言われてもどう仕様もなく、「途方にくれてばかりもいられない」と自分に言い聞かせながら、ケアの方法を手探りしながら暮らす。「何かした方がいいだろう」ということで、日野の姉が油絵の教室に和子を連れて行ってくれることになる。事情を話して、絵の先生は和子と姉とふたりだけの時間を月2回作ってくれる。油絵※は初めてだが、絵心があるらしく、「センスがいい」とほめられる。

※後に彼女の高校時代のアルバムを見て、美術部で油画をかいていたらしいことがわかる。

 和子が姉の家に1泊して絵を習いに行っている間、私は東京周辺の教え子達に会ったり、電話をしたりして彼女の状況を話す。妻がこういう病気になって初めて、「情報砂漠」ということを思い知らされる。これだけテレビや印刷物や本などの情報があふれているのに、何を手掛かりにしていいのか全くわからない。主治医が、「治療法はありません。薬(脳の活性剤というが)は気休めだと思って下さい。刺激を絶やさないようにして…(だけど)覚悟して下さい」としか言わないのだからとも思うけれど。

 しばらくして、東京周辺の教え子達が連絡を取り合って、彼女のケアのために事実上のネットワークを作ってくれていると実感できるようになる。週に1度は誰かが声をかけてくれて、われわれを家に呼んでくれたり、ハイキングに誘い出してくれたり、家にきてくれたりする。たいてい、複数が集まり、しょっちゅう同窓会の様な賑やかな雰囲気になる。市原の教え子Yが電話をかけてきて、「先生、奥さんより先に死ねませんからね」と言う。うれしくて涙が出る。教え子達からのケアへのサポートは、それから3年経つ今も続き、「教え子達からのサポートで生き得ている」という実感は変わらない。

 

-12月- 

 12月初め、私が卒業した大垣の工業学校(旧制)のクラス会が岐阜であり、和子を姉に頼んででかける。旧制から新制にかけて5〜6年間同じクラスに居た級友達で、12歳で出会って以来50年たつ。四十数年ぶりの再会。ほとんどまだ現役で、「後藤君はもう悠々自適とはうらやましい」と言われる。

 翌日名古屋で西高最後の教え子34期のKと会い、和子のことを話す。彼女は和子と面識が無いのに、私の話を聞いて涙を流す。その足で三重県の津に住む妹の家へ向かう。和子と同い年の彼女はいろいろ勉強していて、この病気のことでいちばん相談相手になってくれる。「いっそこっちに来ない? きょうだいも多いし、私は専業主婦だから力になれると思うよ」と彼女は言う。津と京都と名古屋と名古屋の郊外と岐阜に、私のきょうだい達が住む。彼女の話を聞いて、「そうしたい」と気持ちが強く傾く。東京に帰って和子の姉にその話をする。姉は東京から遠い中部圏に行くことは反対だと強く言う。いちばん身近な肉親の和子の姉に反対されて、中部圏行きを断念するが、そのことが後に悔を残すことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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