〈東京での生活・その2 病院に行くまで 〜'92.11〉

 とにかく彼女をひとりにはしないと心に決めて毎日を過ごすが、新しいことや新しい地理がほとんど覚えられない状態は変わらない。家の中からは電話できず、アパート前の公衆電話から、心理療法士をしている教え子のEに電話する。彼女も西高28期で、彼女と夫のH氏は、4月に同期生達を呼んでわれわれ夫婦の歓迎会をやってくれている。彼女は私の話を聞いて、「私はアルツハイマーじゃないかと思うんです」と言う。思いもよらない話で電話口で絶句する。「だってまだ55歳だよ」と言うと、「いえいえ、早い人は40代で発症します。できるだけ早く専門病院で検査を受けて下さい」と言う。「あんた、少し新しいことを記憶しにくいみたいだから、病院に行って診てもらおう」と言うが、「私、どこも悪くない」と言って応じない。後になって、本で“病識が無いのがこの病気の特徴”だということを知る。

 

         -8月-           

 8月、私の母の7回忌で、車で岐阜へ行く。法事にはきょうだいがつれ合いを含めて十何人集まり会食もしたが、誰も彼女の異常には気付かない。冗談も結構言う。帰りも中央高速を使ったが、刻々と移り変わる外の景色に余り興味を示さない。山梨にはいると富士山の夕景に息をのむ思いだが、彼女はチラッと見るだけでうつらうつらしている。「以前はこんなではなかった」という思いが強い。帰宅して、彼女は息子に「夏休みはないの?」と聞く。彼は「官庁と同じだから、特に夏休みはないよ」と答える。それから毎晩の様に同じ質問をし、彼も辛抱強く答えるが、1週間ぐらいして納得したのか、聞かなくなる。

 

        -9月-          

 9月、彼女と同じく音楽専攻で話も合う妹に相談するために、車で宮城県の実家に行く。東京のアパートからは音がつつ抜けで、詳しいことは電話で話せず、実家に行って彼女が風呂に入っている間に今迄の経過を話す。何日目かに妹が古い『暮らしの手帖』を出してくる。1987年冬発行10号の健康特集に『脳の老化と痴呆』(東大教授・朝長正徳氏)が出ている。その夜、彼女が眠った後ひそかに読む。思いあたることが多いのに驚く。記事の中に、「アルツハイマー病の遺伝の家系があり、染色体異常のあることがわかっている…」というくだりが目につく。そういえば、彼女の叔母(母の末妹)が数年前50代で発症し、今は家族の顔もわからない状態と聞いていた。

 実家にいる間の一日、車で彼女を連れて花巻郊外の光太郎山荘に行く。秋の日の夕方、他に客のいない山荘と資料館を見たあと、歌碑のある智恵子展望台を歩く。暮れなずむ夕方、寒くてさびしい。光太郎が、狂った智恵子を書いた詩の一節「わたし もうぢき 駄目になる−」がフトよみがえる。分裂病の智恵子にあったというこの病識が和子にはないのが救いだが、「駄目になること」は避けられないのかなあと思う。

 東京に連れて帰り、日野市に住む彼女の姉と相談して、姉が立川の総合病院の専門外来に連れて行ってくれることになる。11月初め私が教え子の結婚式で札幌に行っている間彼女を姉に託し、病院へ連れて行ってもらう。その後、数回通院検査を重ねて、12月初め検査の結果が出る。私と姉のふたりで結果を聞きに行く。右側頭葉の前部の萎縮がかなり進んでいるというSPECTとCTの画像を見せられ、「アルツハイマー病中期症状です。どんどん進みます。御家族は大変でしょうけれど覚悟して下さい」と言われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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